合掌

今日一日は、パソコンとにらめっこし続けていました。

手元の資料と目の前のディスプレイ。

時折、他の事務を請け負いながら、再び、同じ姿勢に、、、

ピント調節機能が疲れ切ってしまったようで、視線を移すと、なかなかピントが合いません。

実は先ほど、ちょっとした段差でつまずきました。

でも、大丈夫!

うまくごまかせたと思っております。

あ、これが悩みの種だった、、、

実はですね、小僧自身、他人の目をスゴく気にする性格だと思っています。

「人からどう見られているか?どう思われているか?」で、悩んだり、迷ったりした(している?、、、いまも?)経験が何度もあります。

正しく言うと「人に嫌われたくない」という気持ちなのでしょうね。

それゆえ、まず相手に合わせ、相手に同調し、自分の想いを引っ込め、反対からの意見はしない、、、という小僧がいるんです。

たとえれば、機械の中の歯車に徹しよう、他からの動力を、増加も減少もさせることなく、伝えるだけの自分に徹しようと、、、

これが原因で後から後悔することが多々ありました。

でも、ですね。

「お前はモーターにならなきゃならないんだよ。お前が動かないと回らないんだよ。」とアドバイス、いや、叱咤激励されて気づかされたんです。

小僧自身が意見しないこと、自分を引っ込めることが、実は全体を丸く収めているようでいて、無責任である、、、と。

基本的に自分に備わっている性格は、意見する方なのですね。

そして、小僧のみならず、本当はみんな意見できる性格なんですよね。

意見を出し合い、出された意見を取捨選択、磨き上げながら、初めは反対側だったとしてもいつしか皆の想いがひとつに纏まって、意見=アイデアがカタチとなっていく。

大事なことは、みんなでそのプロセスを経ることで得られる経験そのものと信頼関係なのでしょう。

賛成・反対という点や、(企画の)成功・失敗という点のみで、良かった・悪かったと判断されることがほとんどですが、この2点間を結ぶ線こそが尊く貴重な機会なのです。

その機会を得るためには、やっぱり意見することは大切です。

反対すると「好き・嫌い」「味方・敵」とすぐに判断する人がいますが、単なる感情に任せたジャッジです。

その人こそ、自分が嫌われたくない気持ちが強いと思います。

日蓮宗の教えを照らして理解しますと、ひとりひとりが仏さまとして生まれてきて、助け合い、尊重し合い、世の中を良くしていく使命を担って今を生きています。

感情的な判断は、はたして仏さまとしての心持ち、ふるまいと言えますでしょうか?

さて、長くなってしまいました。

今一度、自分を引っ込めようとしている我が身に問い直して、今日は終わります。

「自分は本当に仏さまとしての使命を果たしているのか?」と。

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